1 甲斐荘楠香の生い立ち
高砂香料の創業者甲斐荘楠香は1880(明治13)年5月に京都で生まれました。楠香は「ただか」と読み、本名です。甲斐荘家は江戸時代四千石の旗本の家柄でした。1887(明治20)年、楠香は京都府師範学校附属小学校に入学、卒業後京都府立一中に進みます。中学に進学する者がまだ少数派だった時代です。同窓生同士の結びつきは強く、その後に高砂香料とかかわりを持つようになる京都一中出身者も少なくありませんでした。中学時代、楠香はがっしりした体格で運動神経が良く、野球選手として活躍しました。柔道も強く足も速かったといいます。
中学卒業後に、京都の第三高等学校を経て、楠香は1901(明治34)年に京都帝国大学理工科大学純正化学科に入学します。京都帝大は日本で二番目に設立された大学です。そこで楠香は有機化学を専攻し、1904(明治37)年に卒業した後も研究室に残りました。1906(明治39)年には久原躬弦教授のもと助教授になりましたが、研究を続けながら、楠香は次第に香料に関心を寄せていきます。そして、香料産業の本場ヨーロッパで学びたいという気持ちが強くなっていました。
2 ヨーロッパへの旅立ち
1910(明治43)年9月、甲斐荘楠香は神戸からヨーロッパへと旅立ちます。11月、ロンドンに着いた後ブリュッセルに行き、年が明けた正月4日にベルリンに向かいます。ベルリンの駅では京都一中での楠香の先輩に当たる慶松博士らが待っていました。後に日本の薬学界で活躍する人たちです。
香料と分野の近い薬学を専攻する留学中の先輩たちに、自分の希望を話して助言を求めたところ、香料を学ぶにはフランスに行くほかはないという点で意見が一致しました。楠香はフランスに行く決意を固めたのです。
一度ブリュッセルに戻り、それからディジョンに移ってフランス語の学習に集中します。香料産業の中心であるグラースに行くことを考えていた楠香は、グラースの香料会社に見学を頼む手紙を出しました。ところが、戻って来た返事は、フランスの香料製造技術を盗みに来る日本人を受け入れる会社などないという拒絶の手紙でした。
楠香は落胆しましたが、そこであきらめない強い意志がありました。受け入れ先は決まらなくとも、とにかくグラースに乗り込もうと覚悟を決め、それまで語学の勉強に集中することにしたのです。そして、香料に関するフランス語の本を読んで今後に備えました。
3 グラースでの楠香
1911(明治44)年5月に楠香はグラースに入りました。当時グラースでは花の咲く季節には女性たちが香料会社で働くことが多かったようです。楠香が滞在していた宿の主婦も香料の製造に携わっていて、楠香が香料について学びに来たことを知ると自分の経験を話してくれ、香料会社についての情報も得ることができました。
5月下旬にはスランという小さな香料会社に「見学」という名目で通うことを許されました。ちょうどオレンジフラワーの香料を作る時期でした。工場が忙しかったこともあって、楠香は製造を手伝うようになります。職工たちもはるばる日本からやって来た楠香を温かく迎えてくれました。
5月末から6月半ばにかけて楠香は勤勉に働き、香料に関するさまざまな知識を得ることができました。6月末に楠香はグラースに来た目的を社長に話し、香りを覚えたいと訴えます。社長はそれを許してくれ、香料の勉強をさせてもらえることになりました。
秋になると大学の恩師久原教授の斡旋で就職が決まります。ミツワ石鹸を発売している丸見屋という会社です。丸見屋では今後香料が重要になるとの認識から、楠香を採用することになったのです。
4 ジュネーブでの楠香
グラースで天然香料について学んだ楠香は、今度は合成香料の研修が受けられる先を探すことにしました。スランの社長に相談すると、ジュネーブにある香料会社への推薦状を書いてくれました。
1912(明治45)年3月、楠香はジュネーブ郊外にある香料会社に初めて足を踏み入れます。工場を見学した後、技師長を紹介され、翌日から研修が始まりました。念願の合成香料の精製や合成に着手することになったのです。
また、楠香にはもうひとつ是非やっておきたいことがありました。それは「調香」です。19世紀の後半から20世紀初頭にかけて、合成香料の製造法や使用量は飛躍的な発展を遂げ、合成香料は調合香料の原料として主流になりつつありました。合成香料の開発と製造の現場を目の当たりにした楠香が、合成香料を用いた調香に興味を移すのは当然の成り行きでした。
1912年の末、技師長に相談に行くと、楠香のために調合室を用意してくれることになりました。その部屋で、経験ある調香師を先生役として、楠香は創香に励みました。その時の処方箋の一部は、当時楠香が記した古いノートに残されています。帰国後の仕事を考え、石鹸用香料の調香や石鹸への賦香も行いました。
5 石鹸会社時代
1913(大正2)年末に帰国した甲斐荘楠香は東京に居を構え、丸見屋で働き始めます。当初は調香を主な仕事にしていました。ところが、1914(大正3)年7月、第一次世界大戦が勃発、戦争の影響は日本の産業界にも及びます。輸出が増え好景気となる一方で、原料をヨーロッパからの輸入に依存していた化学工業界は、輸入の途絶と価格の高騰により苦境に立たされたのです。その結果、主要な原料を国産化する必要性が叫ばれ、この時期にようやく本格的な化学工業が日本に興りました。
香料業界も、合成香料だけでなく天然香料や調合香料もヨーロッパからの輸入品に依存していたので、国産品が求められるようになります。絶妙のタイミングでヨーロッパから帰国した楠香の指導のもと、丸見屋でも合成香料の製造を始めることになったのです。楠香は欧州で学んできたことを活かすべく、必死に働きました。
しかし、1918 (大正7)年に休戦交渉が始まると事態は一転します。ヨーロッパで諸工業が復興するのに従い輸入が再開されると、日本の香料産業は輸入品の価格と品質に太刀打ちできなくなります。合成香料の売上の落ち込みにより、丸見屋は香料部門を大幅に縮小することにしました。
6 高砂香料誕生
1919(大正8)年7月、楠香は丸見屋を退職します。合成香料製造事業の縮小を決めた丸見屋が、楠香をはじめとする香料担当の社員に辞職を迫ったのです。この時、楠香とともに30名以上が丸見屋を去りました。
京都帝国大学の先輩で丸見屋をともに辞職した岸喜鑑が楠香に香料会社の設立を熱心にすすめました。最初は迷っていた楠香ですが、岸の熱い思いを汲んで、丸見屋でみずからが育てた若い技術者たちとともに、日本に本格的な香料産業を興すことをついに決意します。
増大する香料需要に対し、輸入に依存せず、アジアの香料資源を活用して組織的な日本の香料会社を作り、以て国家の発展に尽くしたいという設立趣意書を作成して、出身学校の友人や知人を回って出資者を募りました。幸い京都帝大の関係者や京都一中卒業生から多くの出資者と共同経営者を得て、技術者集団による香料会社の設立が実現します。
こうして、1920(大正9)年2月9日に高砂香料株式会社が誕生し、現在本社がある蒲田の地には工場を得ました。合成香料の製造を軸にした高砂香料の第一歩が踏み出されたのです。